中沢啓治作 まんが 『はだしのゲン』 翻訳出版グループ | |
核兵器廃絶記念デー Nuclear Abolition Day (核戦争を防止する石川医師の会 主催) 日時 2011年6月5日 場所 石川県教育会館 |
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6月5日「核戦争を防止する石川県医師の会」主催の<核兵器廃絶記念デー>の催しにメンバー2名が参加しました。 日本原水爆被害者団体協議会事務局次長で元金沢大学の教授の岩佐幹三さんが被爆の体験を話しました。 <要旨> 8月6日、B 29飛来し爆弾投下する。爆風、熱戦、放射線で一瞬にして広島の街は崩壊。
それほど強烈なエネルギーであった。それまでB29が飛来するときはキーンという金属音であったが当日は「ブルン ブルン」という音でなので「日本にもまだ飛行機がある。」 次の瞬間バットで頭を殴られたような衝撃。奇跡的に助かった。 立ち上がって逃げようと思ったが目の前は真っ暗。ピカの瞬間は覚えていない。真っ暗な中を走って逃げた。黒い粒状の埃は地面から上がってくる放射能をおびた煤。見ると街はない。レンガと瓦礫と材木の山。あちらこちらで火が燃え上がる。 いえの屋根はつぶれ、母は家の中。「ここよー」という声が聞こえた。それもつかの間、声のするほうに行き、瓦を取り除き覗き込むと倒れた梁でそれ以上は進めない。 上を向いたまま。口から血を出しているがどうしょうもない。黒い世界にいる母には現実は分からない。「逃げんさい。」と母。般若心経を唱えながら逃げた。 人間であって人間でない行動をとらなければならなかった。その夜は土手に寝て郊外の叔母のところに逃げ込む。叔母さんに「母を殺した。」と初めて泣いた。 7日からは妹を探し広島の街を歩き回る。数日後、家の焼け跡から母を探し出す。黒こげの物体となっていた。人間の姿ではない。被爆者の死は人間の死ではなかった。非人道的。 もし核戦争が起こればこれ以上のことが起こる。 1983年、ロンドンで青年法律家反核国際法廷が開かれた。「日本の家は何で建てられているか。」と聞かれた。腹が立った。 スイス人医師のジュノー博士は国際援助を要請したがアメリカは原爆の実態が知れることを恐れてこれを拒否。被爆者は12年間放置された。夢遊病者のように妹を探してひと月、9月6日だるくて仕方がない。おばの家に帰る途中、体中に赤紅色の斑点が出た。 紫色のほうが重症。のどの痛み、発熱、花地などの症状が出る。おばは歯医者に頼んで毎日注射をした。2週間から20日で回復。 平成8年には皮膚がん、11年には前立腺がんを発症。人類をこのような苦しみに遭わせているのは放射能。今なお地上にある26000発の核兵器廃絶のために共に手を携えて闘おう。 お話を聞きながら『はだしのゲン』の様々な場面が思い出されました。 体験談のあと、『はだしのゲン』のアニメが上映されました。 「核戦争を防止する石川県医師の会」では子供達に被爆の実相を知らせるために石川県内の小中学校の図書館に漫画『はだしのゲン』を寄贈する運動に取り組んでいるとの事です。 |