中沢啓治作 まんが 『はだしのゲン』 翻訳出版グループ

 
『はだしのゲン』:原爆投下以降の漫画
              アート・スピーゲルマン による前書き        
日本語訳は翻訳出版グループ
     「ゲン」が私の頭から離れません。最初にこの本を読んだのは1970年代後半で、「マウス」の執筆を始めた直後でした。「マウス」は20世紀に起こった原爆と並ぶもうひとつの大虐殺を扱った、私自身の長編漫画物語です。その時私はインフルエンザにかかっており、高い熱がある中、この本を読みました。恐ろしい悪夢の激烈さで、ゲンは私の熱のある頭の中を焼き焦がしながら入ってきました。中沢氏の記憶と言うよりむしろ自分の実体験の記憶であるかのように、本の中の描写と出来事をはっきりと覚えています。自分の溶けた皮膚を引きずりながら廃墟となった広島を歩いていく人々、火がつき恐怖に駆られ町を駆け抜けて行く馬、少女の崩れた顔の傷から這い出す蛆など、私は決して忘れることができません。ゲンはひるむことなく、原爆の悲劇に対処しています。放射線を浴びたゴジラもスーパーミュータントもいなくて、ただ悲劇的な現実があるだけです。私は最近この本を読み返しました。そして、「はだしのゲン」の生々しさが単に私の熱のせいでなく、作品そのものからきているのだとわかってうれしくなりました。もっと正確に言うと、漫画という媒体に本来備わっているものと、中沢氏が生き抜き描いた出来事からきているのです。
     漫画はとても刺激的な伝達手段であり、少ない言葉と簡素化され暗示的な画像で、大量の情報を伝えます。これは脳が思考と記憶をいかに形成するかの見本だと私には思えます。私たちは漫画の絵で考えます。漫画は、アクションアドベンチャー物語やジョークを語るのにどんなに適しているかを、たびたび実証してきました。しかし、小さい画像と、手書きに共通する率直さは、驚くほど自伝にも合うある種の親しみやすさを漫画に与えます。
     1960年代後半にアングラコミックスが出てくるまで、自伝漫画は重要な「ジャンル」ではなかったのは妙に思えます。個人の歴史と世界の歴史の共通部分に公然と取り組む作品は未だ、まれなのです。おそらく、漫画が自伝を書くための伝達手段になるには、大人向けの媒体として認められることが必要だったのでしょう。すくなくとも、私は中沢啓治氏の経歴を知るまでは、そう思っていました。中沢氏は広島の原爆を生き残り、1972年、33歳の中沢氏は、率直で詳細な自叙伝的漫画を日本の週刊少年漫画に書きました。それは、身も凍るほど率直な題名の「俺は見た」でした。1年後彼はゲンのシリーズを書き始めました。これも「原爆」を見たことに基づいている物語で、「戦争の惨禍」の生き地獄にとらわれた少年についての漫画です。
     日本では、漫画を読むのは恥ずかしいことではありません。あらゆる階層と年齢層が驚くべき数の漫画を読んでいます。ある週刊漫画は毎週300万冊以上売れています。よくある時代劇やロボットやミュータントだけでなく、経済理論や麻雀や思春期前の少女たちのために描かれた男性の同性愛物語を扱っている漫画もあります。しかし、私の日本の漫画の知識は非常に限られていると認めなくてはなりません。日本の漫画は私自身とわずかな接点しかない、広大な未探査の宇宙のようです。このことは、日本のすべてに当てはまることもあるように思われますが、ゲンは私と日本が出会う理想的な起点かもしれません。
     現代漫画は厳密に言えば、西洋の形式をとっています。それは原爆によって東洋にもたらされた恐怖について伝える媒体として、いっそう適したものになっています。しかし、日本の漫画は我々のものとは全く違う特徴や表現の仕方を持っています。そして、これらをゲンを読む過程の一部として、学び受け入れなければなりません。物語はしばしば極めて長く、ゲンの全巻は2000ページにも及ぶそうです。漫画の1ページの語数は少ないので、短い通勤時間に、200ページの漫画でも読めます。明らかな象徴化が日本の漫画の特徴です。中沢氏の場合、それは本を通してぎらぎらと輝き繰り返し現れる太陽の形態をとっています。それは、時の経過の印であり、生命の与え手であり、日本の旗であり、ゲンの物語にリズムを与えるメトロノームなのです。
     日本の漫画に時折出てくる暴力は、我々の国の漫画の中より、はるかに多い。平和主義者であるゲンの父親は、自分の子供たちを頻繁に力任せに殴りつけます。私たちなら愛情表現というよりは、ひどい小児虐待だととらえてしまいます。ゲンと町会長の息子がけんかして、相手の指を食いちぎるという光景は、特に耐えがたいです。それでもこれらの小さな残虐行為は、一般市民に原子爆弾を落とした非道な行為に比べたら、取るに足らないことです。
     登場人物の顔つきはしばしば、ディズニーアニメのような大きすぎる白人の目と幼形成熟の顔を強調して、鼻につくほどかわいくなります。中沢氏の漫画のスタイルは最悪な例ではないけれど、その流儀から来ているのです。彼の技巧は幾分不作法というか、やぼったく、ニュアンスに乏しいですが、それでも役割を果たしています。明瞭で、効率的で、そして、優れた物語になるための最も重要な魔法の技となっています。つまり、登場人物たちに命を吹き込むのです。彼の描写の最大の長所は単刀直入で、率直であることです。その信念と正直さが、広島で実際に起こった信じがたくあり得ない出来事を読者に伝えるのです。それが目撃者の断固として伝えるための技巧なのです。
     この本を読む西洋の読者には、最初日本のなじみのない語法やイディオムの漫画言葉が障害となるかもしれませんが、それは大きな楽しみも与えてくれます。中沢氏は、非常に腕のいい物語作家で、「絶対語らなければならない残酷なこと」を伝えるために、読者の注意を引きつけておく方法を知っています。話の筋の運びを緩めることなく、戦時中の日本の日常生活と、生き抜くための豊富な情報を、彼は安々と伝えています。大量殺戮の現実を照らす作品にこのような楽しみがあると言うと、矛盾を感じるかもしれませんが、他文化の見方に触れることと、主人公たちと深めていく一体感と、物語の本質そのものとが、本来楽しいのです。中沢氏は、西洋の人種差別主義や冷戦の権力闘争の現実的政治にというより、むしろ日本の軍国主義的国粋主義に原爆の原因があるとしているので、英米の読者はこの作品は受け入れやすく、おもしろいと思うかもしれません。
     結局のところ、ゲンはとても楽観的な作品です。中沢氏は自分の作品が警告的な効果があり、人間は人類のために行動できるようになると信じています。ゲンは勇気ある小さなヒーローで、誠実、勇敢、勤勉といった美徳を具現化しています。中沢氏は善への可能性を信じているので、皮肉な目でみれば,「ゲン」は 真の児童文学と特徴付けられるかもしれません。しかし、基本的には、この作家は自身が生き抜いてきたことを伝えています。単に生き抜いた出来事ばかりでなく、生き残ることへの哲学的心理学的見方について伝えています。彼の作品は人間主義的であり、人道的です。もし私たちが次の世紀にまで生き残ろうとするなら、彼の作品は人と人との共感が必要であるという事実を具体的に実証し、強調しています。