中沢啓治作 まんが 『はだしのゲン』 翻訳出版グループ

英語版翻訳グループのチーフが、金沢大学で授業をしました。
 
 翻訳・編集に携わって 
                            英語版チーフ 西多喜代子     
 「ゲンとの出会い」
 1994年にモスクワで設立されたプロジェクト・ゲンは中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」をロシア語と英語に翻訳、作成しているグループです。私はそのメンバーで英語版の責任者として全10巻を統括しました。英語版の翻訳者は8人います。
 代表はまずロシア語に翻訳しました。というのは、1994年、チェルノブイリの被災者ワシレンコ・ニーナ・ミハイロヴナさんは、広島で被爆した子供や親達の手記をまとめた朗読劇「この子達の夏」の観劇のため金沢に招待される事になっていました。ニーナさんの来日のため「この子達の夏」実行委員会から、当時代表の所属していた「金沢ロシア語センター」に台本の翻訳依頼がありました。翻訳にあたり共同作業をしていたロシア人女性は「こんなことは知らなかった。涙を流しながらタイプした。」と言っているのを聞き、代表は「ヒロシマ・ナガサキ」は世界中の人が知っている言葉ではあるが実相は知られていないことを痛感、原爆漫画の古典といわれる「はだしのゲン」の翻訳を思い立ちました。
 次に、世界中でより多くの人に読んでもらえるためには、英語に訳そうと思い、ボランティアを募りました。およそ12年前のことです。そして10巻完成までに10年ぐらいかかりました。翻訳自体は2年ぐらいで終わりました。こつこつと楽しく自分なりに英語の勉強を続けてきたことで、私のライフワークともいえる「はだしのゲン」の英訳ボランティアに巡り会えました。気の合った勉強友達に恵まれたこともあり、ラジオ英会話の暗唱、ABCニュースやCNNニュースの書き取り、テレビドラマ「アルフ」の書き取り、日本語の記事を英語に訳すなど、いろいろなことを楽しく続けてきました。ABCニュースは読まれたテキストをネットのホームページで見ることができたので、後で答え合わせができました。でも、そのうち、テキストを見るのは有料になってしまいました。時々絵本の翻訳や映画字幕のコンテストに応募したりしました。

「個人的な作業と楽しみ」
最初は翻訳をすること自体がうれしくて始めましたが、なんと大変なことだと次第にわかってきました。それでも続けられたのは、物語の魅力だと思います。翻訳が終わって、コンピュータを使って画像処理、吹き出しに台詞を入れるという作業を10年間も続けました。それができたのは、たまたま長い子育ての期間が終わり、夫が単身赴任で、家には母と高校生の息子だけになり、自分の時間を自由に使えるようになったからです。食事、買い物、週1回のスポーツと英会話、入浴などを除いて、毎日コンピュータに張り付いていて、長い時には1日10時間ぐらいコンピュータの前に座っていました。それでも、1ページ、1ページ進んでいくのがうれしくて、やめたい、など思ったことがありませんでした。

 まず10巻すべてを読んで、すっかり魅せられてしまいました。ゲンは苦しいことがいっぱいあるのに、次々と打開策を講じて、失敗しても、全然めげないで次のことを考えます。また、昭和の戦中戦後の時代背景がよくわかります。私自身はこういったつらい経験は何もしていませんが、懐かしいこともいっぱいあります。おばあちゃんが着物を着ていた、電車ではなくて蒸気機関車に乗った、荷車を引く、行水をするなどです。こういった文化も伝えていくことが大切だと思いました。そして、私はこんなにも原爆が恐ろしいものだとは知りませんでした。きっと知らない人はたくさんいると思い、この残酷さをしっかりと多くの人に伝えようという気持ちが強くなりました。それで、作者の中沢さんとプロジェクト・ゲンの代表の思いに、翻訳でお手伝いできると思いました。

 私は4巻,8巻,9巻を担当しました。描写が恐ろしく、悲しすぎるという理由で翻訳をやめた人もいましたが、私は、もうとまらないという気持ちで、どんどんページをめくって翻訳していきました。まるで、ミステリーを読んでいる気持ちでした。最終的には私は英語版責任者として画像処理を含め全10巻に関わったので、すべての巻を数え切れないほど読み返しました。それでも、免疫はつかないらしく、悲しい描写になると同じところで、涙が出てきました。とくに、いつもじーんとくるのは、亡くなったゲンの弟の信次にうり二つの隆太がゲンの家族と一緒に住めるように、ゲンがお母さんに頼んで、了承されるところです。貧しく、食べるものもなかなか手に入らないのに、さらに子供を一人育てようとするお母さんの優しさに感動し、隆太が、「わ、わしゃなんにもお礼をするものがないけぇ おばちゃんの肩をもませてくれよ わしゃ死んだ父ちゃんの肩をもむのはうまかったんじゃ….. わしにもませてくれよ….. ええだろう」”I don’t have any way to thank you, Ma’am, but I can massage your shoulders… I used to do this for my dad all the time…I’m pretty good at it… Please, Ma’am, let me do this for you, OK?” と言うのがいじらしくて、いつも涙が出ます。

「翻訳グループとの協力や励ましと支え合い」
 全く素人の私が翻訳をすることができたのは、チェックをしてくれたアラン・グリースンという東京在住のアメリカ人のおかげです。この人は、35年ぐらい前に、東京で初めて「はだしのゲン」を何カ国もの言語に翻訳した学生たちの一人です。それらはすべて2巻ぐらい翻訳され、英語は4巻までされていました。4巻まででは、原爆が落ちて、苦しい思いをしているだけで、5巻以降にやっと希望が出てくるのです。それで、10巻まで完成したいという旨を伝えたら、アランはぜひいっしょに完成させたいと言いました。そして、抜け落ちているページを、原文に沿って、もう一度1巻から訳すことにしました。アランは本業の傍ら、全10巻のチェックをしました。アランはずっと漫画文化に親しみ、翻訳家・通訳として活躍していましたので、私たちにとって力強い味方になりました。翻訳中、一度書いた訳を読み返すと、あちらの方がいいか、やはりこちらかと、悩んでばかりでした。こうして、私は何か疑問点が出ると、アランにメールで質問しました。アランがチェックしてくれたものでも、疑問があると、メールしました。日に何回も何回もメールをやりとりしました。

 物語の中には多くのけんかの場面があり、かなり汚い言葉を使っています。”Shit!” を使ってはいけないだろうと思い、別の言葉を使いましたが、アランは “Shit!” を使ってもよいと言いました。広島弁や地名などわからないときがあると、広島市のホームページを見て、メールで質問したりしました。翻訳者の中の一人が広島出身なので、よく質問しました。擬音、擬態語が非常に多く、浪曲や歌などは日本独自の文化・言語の表現だったり、合いの手が入っていたりしました。(イヨー、ペペンペンペン、ハー、など)ギギギ(AAGH)ガムをのばすときのビャーッ(STRETCHHH)と言う音や、野球の球をグローブで受けたときのズバン(THWACK)という音、蝉や虫の鳴き声などは、アランに相談しました。日本語ではものの数は問題になりませんが、英語では、単数なのか複数なのか、とても悩むときがありました。

 ゲンは小学校低学年なのですが、言うこと、考えることがとても大人びています。子供の言葉で訳しなければと思いましたが、どうしていいかわからず、大人のお説教のようになってしまいました。

「翻訳の苦労と工夫」
 アランと10巻を通して、同じものを使わなければいけない言葉と、歌の歌詞を決めました。歌には吹き出しの中に八分音符を2つつけて歌詞だと言うことを表しました。お金や重さの単位(貫)は当時の価値に直して、看板やお墓の名前などもコマの下に説明文にして入れました。看板、手紙、ポスターなど文がとても長いものは、もとの絵を損なわない程度にコマの中にスペースを作って書き入れました。私自身も知らないことが多かったので、辞書とインターネットは本当に役に立ちました。海軍の制服の七つボタンの「桜にいかり」に関しては、広島の海軍の博物館にネットで問い合わせたら、ボタンを写真に撮って送ってくださいました。その他、町役場のホームページなど検索し、質問のメールを送ると、丁寧な返事をいただきました。ポスターや電柱のビラにある映画についてはThe Internet Movie Databaseを活用しました。

*全巻を通して使うことにした言葉   
父ちゃん、母ちゃん:Papa, Mama
隆太がゲンのお母さんをおばちゃんと呼ぶ:Auntie
「クラスの友達の雨森という男の子のあだ名・クソ森:Crapamori」 
朴さん:Mr. Pak 
海軍航空隊:the Naval Air Corps
「予科練:prep pilot school」 
ウウウ(サイレン):WHOOEEEE
ハアハア:Pant pant…
ザクザク(行進足音):TROMP TROMP
ブー(おなら):PPFFTT
ガヤガヤ:Bzzz…
ボー(汽笛):WHOOOO!
ゴトンゴトン(汽車):CHUG
ドーン(大砲):BOOM BOOM
バーン、ガーン(ピストル):BLAM!
英語の台詞:<   >で囲む
♪ ♪:歌の歌詞        

南無阿弥陀仏:All praise to the Buddha! All praise to the Buddha!
       Praise the Buddha, praise the Buddha…
「麦のように、踏まれても踏まれても、強く生きていくんだ:
  We have to live on and start over again just like sprouting wheat, no matter how much we get stepped on. 」

4巻にでてきた浄土真宗の御経の御文さんは、実家に意訳の付いた本があったので、借りてきました。意訳があっても難しかったです。
御文さん
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり
現代訳
さて、人間の定まりない有様をつくづく考えてみますと、この世の儚(はかな)いものとは、この世の生まれ、生き、そして死んでいくという始中終、まぼろしのごとき一生涯であります
Behold the countenance of man
Changing from moment to moment
This world is a fleeting thing
Dreamlike as life itself

読んでいる本や英語に関するメルマガ、映画などに出てきた言葉で、いつか使ってみたいと思っていたのを、ゲンの中で使う楽しみもありました。どういう言い回しをしているか、と映画を見る時とても注意深くなりました。
What what mean? In the soup in the jam right on Beats me.
pep up knock ~ flat Don’t tell me. fishy Cut it out! In your dreams!
Shoot! go berserk Hold your horses! in a stew
every Tom, Dick and Harry

アインシュタインはマンハッタン計画には関与していないのですが、原爆の実験のところで、アインシュタインと思われる男性が描かれているので、協議して髪を黒くし、別人に見えるようにしました。2004年に、金沢市の小学校でゲンは平和の架け橋だという話をしたとき、4年生の男の子が、日本語の本ではアインシュタインなのに、英語版では、違っていると指摘しました。よく見ているものだと、とても感心しました。

 もうひとつ、間違いがありました。どんなにか注意をしていたでしょうが、中沢さんでもミスをするのです。10巻のp117の電柱に貼られたビラです。1952年と書かれていますが、朝鮮戦争休戦協定調印は1953年が正しいので、書き換えました。これはアランが見つけました。   

「世界にはばたくゲン」
 完訳は7言語。英語、ロシア語、朝鮮語、スペイン語、タイ語、フランス語、ポーランド語です。ドイツ語、ウクライナ語、クロアチア語、フィンランド語、エスペラント、イタリア語、トルコ語、タガログ語、インド英語、オランダ語、ギリシャ語、など16言語あまりは途中までです。今ペルシャ語が出版契約中です。中国語版の翻訳は、5巻まで翻訳と吹き出しの書き込みが終わっています。ほとんどがボランティアが翻訳しています。中には出版社が翻訳、出版しているのもあります。

 アメリカの出版社は10巻1セットとしてではなく、ばら売りなので、1巻ばかりがたくさん売れています。アメリカでは2011年は約4,300冊売れ、プロジェクト・ゲンでは、今までに国内で450セットぐらい売れました。

 これから翻訳をする人たちは、契約には十分気をつけてください。私たちは何も知らずに始めたので、最初のアメリカの出版社との契約は、とても私たちに不利なものでした。作者には印税が入りますが、作業をしたプロジェクト・ゲンにはほとんど恩恵が無い状態でした。それで、プロの著作権会社に間に入ってもらって、公平な契約を結ぶことができました。後でわかったことですが、外国語の漫画は、日本と違って反対からめくるからと言って、ページを反転させない方がいいです。日本の文化としてそのまま伝えれば、大変な作業の必要がなくなります。私たちはページを反転したため、襟やボタンのかけ方、右利きなどを直すため、長時間の作業が必要になりました。

 この漫画を読んだ外国の人たちから、たくさんの感想文をいただきました。原爆という言葉は知っていても、これほどひどいものだとは知らなかったというものがほとんどです。平和のために自分たちができることをしなくてはならない、と言うようなとても心強くなるようなものがたくさん来ました。私たちの努力が報われたとちょっとうれしくなる瞬間です。最近来た手紙で最も感動したものはアメリカ人の14歳の少女からのものです。これを機に、核兵器や原子力発電のことを考えてみてください。(当HPにこの少女からの手紙があります

 広島では、毎日文化センターで「はだしのゲン」を英語で読むという講座が開かれていて、8巻ぐらいまで進んでいるそうです。プロジェクト・ゲンの中国語担当の方が、翻訳者の理解を深めるために、「はだしのゲン」の中に出てくる歌やお経、玉音放送などを探し集めてCDに収録しました。88曲ぐらいあります。これを聴く会を毎日文化センターで開く準備をしています。大学の授業にも、ぜひ「はだしのゲン」を読む時間を取ってくださるとうれしいです。

 日本語の本と英語の本ではめくる方向が反対なので、ページを反転した後、着物や洋服の襟あわせや右利きなどを直しました。あれだけ気をつけたのに、後で見ると、反転させた絵がページによって違っているのに気がつきました。おんぶひもの掛け合わせが一貫していなかったり、、、 私たちの間違いも、本を読みながら、探してみてください。

 絵の間違い探しをすると息抜きになります。2巻p86  

「戦中戦後の歌の英訳」
これらの歌詞は何の歌だと思いますか?       
(皆さんは若いので、知らない歌ばかりかもしれません。ご両親も知らないのではないかと思います。おじいさんおばあさんに聞いてみてください)
Oh, a man must follow his own path whatever fate puts in his wayyy…

Oh, the taste of a ripe red apple, the blue of an autumn sky…

Goodbye triangle---Square as tofu.
Tofu is white---as white as a rabbit.
A rabbit hops---hops like a frog.
A frog is green---green as a banana.
You peal a banana.

Oh, it’s 4:30 in the morning.
Daddy walks out the door.
With his lunchbox full of cheap noodles…
Yes, it’s a hard life for poor folks…
Day in, day out, the fleas keep biting…
Oh, we are loyal soldiers,
We are the hand of heaven, striking at injustice…
Oh, the sun sets red
Here in Manchuria
Far, far from hooome…

We mustn’t be mean to Koreans. They eat and shit the sane as me and you!
So what’s so different about ‘em?
Maybe it’s their funny pointy shoes!

Oh, once upon a time there was a mountain,
A little mountain near a grove of oaks…
And everybody laughed at the little mountain, ‘cuz it was bald on top…

We left our homeland, swearing, swearing to return victorious…
How can I die without gaining honor in battle?

Chasing rabbits on the mountain, catching fish in the river…

Fool went out looking for a hooker, hey-ho…
Got the clap as a souvenir, hey-ho…
“Ow ow ow,” he cried in pain…

Beggars from eight hundred provinces
Stand with their bowls at the gate…
Hey, Mister! Give us some food!
Give us enough to fill our bellies!

Baby piglet, born yesterday, stung by a wasp, he was…
Died an honorable warrior’s death, he did…

Hey-ho! Hey-ho!
There was a wife who loved her husband, and he adored his wife, hey-ho!
Now one fine day in the middle of June
It was hot way out in the countryside
But cool deep in the woods…

Red roof on a green hilltop…
A bell tower shaped like a pixie hat…
The bell rings, ding-dong-ding…

Tokyo boogie-woogie, I’m all excited! It’s the song of the century!
The song of my heart! Tokyo boogie-woogie! Yeah…!

Oh, we’re the sons of the sea and the waves…
There once was a pirate with a big long spear…

Don’t cry, little pigeon, you’re my wife in my heart…
If you cry like that, I won’t be able to forget you…

Let’s live on with our hopes high…
Whistling a song of love…
As we walk the tree-lined road of life…
Orange flowers in full bloom…
I remember this street…

Moonlight Monday, fire on Tuesday, water on Wednesday, thirsty mister Thursday, fried his balls on Friday!

When the New Year comes, we eat rice cakes, and then we get the runs…
Turn the decorations upside down and party while you can…


One! He’s bald, he’s bald on top!        実際に訳を考えてみる
Two! He’s bald, his head will rot!
Three! He’s bald, as bald can be!
Four! He’s bald, for all to see!
Five! He’s bald, his head’s all skin!
Six! He’s bald, his hair grows in!
Seven! He’s bald, just look, you’ll know!
Eight! He’s bald, his head shines so!
Nine! He’s bald, his head got fried!
Ten! He’s bald, on every side!
ひとつ ひろったハゲがある     ふたつ ふまれたハゲがある
みっつ みにくいハゲがある     よっつ よこにもハゲがある
いつつ ゆがんだはげがある     むっつ むかしのはげがある
ななつ ななめにハゲがある     やっつ やけどのハゲがある
ここのつ ころんだハゲがある    とうでとうとうまるハゲじゃ〜

「難しい翻訳と適切な英訳を探す楽しさ」
*戦争に関する言葉で、もとの日本語は何だと思いますか?

Air raid! 空襲警報!
traitor  非国民
Luxury is our enemy!  ぜいたくは敵だ!
honorable defeat    名誉の戦死
a thousand-stitch belt  千人針の腹巻き
a Kamikaze pilot    特攻隊
American and British devils   鬼畜米英

*これらの言葉をどう英語に訳したらいいと思いますか?

クラスの友達で、雨森という男の子のあだ名・クソ森: Crapamori
予科練:prep pilot school
「麦のように、踏まれても踏まれても、強く生きていくんだ」:We have to live on and start over again just like sprouting wheat, no matter how much we get stepped on.
「人間というやつはほんとうに勝手じゃのう すぐ 戦争や原爆のこわさをわすれてしまう、、、 これじゃいつまでたっても 戦争も原爆もなくなりはせんわい」:
These people are morons. They’ve already forgotten how horrible the war and the bomb were! No wonder we keep having wars over and over again…